明治の人たちの英語力 100年以上昔の明治の人たちも英語のコミュニケーションはできていました
2024.11.26
江戸時代の鎖国が解けて、明治の御代になり文明開化した日本。海外に留学した日本人はひと握りでしたが、それでも日本人たちは開かれた世界を目指し、次々と海を渡っていきました。外国人に接する機会がないまま日本で英語を習得し、海外留学をしていた優秀な日本人たち。彼らはどうやって英語を実践で使えるように学んでいったのでしょうか。英語学習をする者にとって、先人たちの英語学習はとても気になるところです。明治から大正にかけて、イギリスへ留学したお三方を今回ご紹介していきましょう。
夏目金之助 (1867年~1916年)
明治の文豪、夏目漱石の本名は夏目金之助。その筆名「漱石」は故事の漱石枕流から取り、負け惜しみの強いことを意味しています。1889年のイギリス留学前には漱石と名乗っているようですが、ここではご本名の夏目金之助としてご紹介していきます。
夏目金之助は今の東京大学に入学。漱石と名をつけたのは、俳人の正岡子規との出会いからでした。正岡子規の持っていた漱石の号を譲り受けたと言われています。子規の名は啼いて血を吐くホトトギスからで、正岡子規にはこの大学入学の頃からには既に喀血の兆しがあったようです。
夏目金之助は英文科で英語学習の研さんに励み、卒業後は英語教師の道に進みます。しかし東京では教師生活はうまくゆかず、厭世的な性格も忍び寄ってきています。松山、熊本で英語教師を続けているうちに、1900年文部省から英語教授法を学ぶためにイギリス留学を命じられます。1903年1月に帰国するまで、夏目金之助はイギリスでの留学生活を送ります。でもこの3年あまりのイギリスの留学生活は、悲惨で苦悩の日々が続いてしまいます。
英文学の勉強をしたかった夏目金之助は、英語教授法の会得から留学目的を変える申請をし、それは認められました。けれどロンドンでの講義は面白くなく、神経衰弱に陥っていきます。ロンドンに到着したのが10月の終り。だんだんと日が短くなる冬に向かう季節に、ますます気鬱は進みます。そしてロンドンのスモッグのひどさにも辟易します。それでも1902年の12月まで留学は続けられました。
夏目金之助の英語力は東大時代に培ったものですが、ロンドンではひどいコックニーの訛りに困ったという話も残っています。東大時代の教授とはコミュニケーションがうまくいったからこそ、その英語力に自信を持っていたのに、現地ではうまくいかない、そんなジレンマにも陥ります。それでも英語の講義が理解できるスキルはあるのですから、何の問題もなかったはずです。ネガティブな思いばかりのロンドン生活。英語の本を読むことが好きだった夏目金之助は、イギリスにも英文学にも目指すものがないことに気づき、その表現を日本で小説として体現していきます。しかしその小説の根底には、イギリス生活の影響も色濃く記されています。
※写真は夏目金之助がロンドンで最後に下宿していたクラッパムコモン。
南方熊楠 (1867年~1941年)
難しいお名まえのこの方、「みなかたくまぐす」とお読みします。夏目金之助と同じ歳で、同じ時期に東大予備門に在籍していました。南方熊楠は「知の巨人」と称され、その才能は類い稀なるものでした。フランス語・イタリア語・ドイツ語・ラテン語・英語・スペイン語と、語学を次々と習得し、専門書を読むまでの語学力を持てる力はどこから生まれたのでしょう。学校は嫌い、けれど本を読むことが好きだった少年。南方熊楠のその後はどんなものだったのかご紹介しましょう。
南方熊楠は東大の予備門の1科目に落第し、結局大学には進学しません。しかしその後の方向転換は早く、1886年に渡米し、サンフランシスコのビジネスカレッジで学びます。1892年9月にイギリスへ向かい、その翌年科学雑誌「ネイチャー」に論文が掲載されることになり、10月5日号に「極東の星座」、10月12日号に「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」と、また難しいテーマの論文を寄稿し、採用されています。英語の論文を書けるほどの語学力にも驚かされますが、自然観察を徹底して行い、採集と収集品の整理とずっと続けていたことが日の目を見ました。
南方熊楠はロンドンでは大英博物館に出入りするようになり、洋図書目録編纂係の仕事に就くことになります。天才的な南方熊楠でしたが、その内面には秘めたものがありました。気性が荒く、研究に没頭していた時だけ落ちついていたようなのです。大英博物館ではその英語運用能力を発揮しますが、奇行のためトラブルもあったようです。大英博物館の図書館の出入りをしばらく禁じられた時は、ヴィクトリア&アルバート博物館へ通いました。それでも旺盛な探求心はどんどんと膨らんでいきます。
南方熊楠の睡眠時間は約4時間。熱中すると寝食も忘れるほどだったのでしょう。語学堪能でありながら、英語以外は読むことだけだったようです。英語習得には「対訳本に目を通す、それから酒場に行き、周りの会話からくり返しされる言葉を覚える」と語っていたそうです。目と耳から英語を身につけ、興味のあることには徹底して調べ、語学の壁をも超えた力には感服するだけです。
※写真は南方熊楠が通った大英博物館の図書館のリーディングルーム。今はグレートコートの中にあります。
竹鶴政孝 (1894年~1979年)
明治27年生まれの竹鶴政孝は、ジャパニーズウイスキーの父とも呼ばれ、日本人として初めてスコットランドでウイスキーの勉強のため留学します。元々竹鶴政孝は英語が得意だったようです。
1918年に渡米、アメリカのカリフォルニア、ニューヨークを経て、イギリスのリヴァプールからエディンバラに向かいます。エディンバラはスコットランドの首都。目指すスコッチウイスキーに一歩近づきます。次にグラスゴー大学の聴講生にもなりましたが、机上の勉強だけではウイスキー製造はわかりません。頼み込んで蒸留所での実習に入り、その糸口を見つけます。
たった1人でスコットランドまでやって来て、未知のウイスキー製造を習うことは、並々ならぬ力を持ち続けないとできません。それも全て英語の世界。心が折れそうになることもあったかと思います。それでもウイスキーを日本で造るための勉強と実習を続けていきます。竹鶴政孝にとってそのスコットランドでの光明は、生涯の伴侶となるリタ夫人との出会いでした。日本でのウイスキー造りをリタ夫人も賛同し、その協力を惜しみません。スコットランドのグラスゴーから、極東の日本へ、今度はリタ夫人の異文化理解と生活が始まります。
文化や習慣を飛び越え、母国語ではない語学を習得することは大変な努力を要します。それでも竹鶴夫妻は、ジャパニーズウイスキー誕生のために、その生涯をかけてその使命を全うしました。今、世界的に評価されているジャパニーズウイスキーは、100年以上も昔、竹鶴政孝の情熱と行動がなければあり得ないものでした。
※写真は1934年北海道余市に建てた竹鶴のウイスキー蒸留所。
英語を習得するだけことが目的ではないことを、明治の巨人たちは教えてくれました。好きなことを知るために、英語の世界へとのめり込むことになった南方熊楠と竹鶴政孝、そして英文学をより理解したうえで、その先を日本文学の遺産を創り上げた夏目金之助。他にも土木技術・工学の田邊朔郎、紡績の山辺丈夫らもアメリカやイギリスに渡り、日本の近代化を支えてきました。
また幕末から「お雇い外国人」と呼ばれ、欧米の技術や学問を教える外国人教師たちも来日します。19世紀だけでもイギリスからは1100人以上も日本に招かれています。鉄道技術を教えるために来日したエドモンド・モレルは、新橋と横浜間の日本初の鉄道工事に携わります。鉄製の枕木の輸入を検討していたところ、日本で潤沢な木材の使用をモレル氏は提案し、工事が進められます。しかしモレルは来日前より病に侵されていて、日本の鉄道の開通を見ずに来日の翌年に結核で30才の生涯を終えます。海を渡ってきたイギリス人エドマンド・モレルは、日本の鉄道のため命を賭してその使命を果たしました。
得た語学の力でその先の生き方が変わっています。今とは違い、何も情報がなかった明治生まれの先人たちの海外生活と学び。今の私たちは英語でもっと何かできるのか、その先を考えながら、英語に対峙していかなくてはならないことを気づかせてくれます。漠然と安穏と、英語に触れていてはいけない気がしてきます。