The Kings and their Queens イギリスの国王たちとその王妃たちのお話
2023.05.01
イギリス王室がグレートブリテンとしての歴史を刻んだのは18世紀のことです。意外と新しいと思ったかもしれませんが、実はイングランド国の君主とスコットランド国の君主がそれぞれいらっしゃって、その歴史は長いのです。今回はイングランド国の君主とその妃のこぼれ話をご紹介していきましょう。もっとイギリスを知るために、またイギリス史のお勉強の一助になれば幸いです。
グレートブリテン国の君主として、最初に即位されたのはアン女王。2018年の映画「女王陛下のお気に入り」で、女王陛下を演じたオリヴィア・コールマンが好演し、アカデミー賞最優秀女優賞を受賞して話題になりました。ただアン女王はお子さまたちを次々と亡くされていたので、その血脈は絶たれています。
アン王女の次に即位されたのはジョージ1世。ドイツ生まれの国王です。ジョージ1世の実母がアン女王のスチュワート家とつながりがあったため、王位に就くことになります。そして次はジョージ2世と引き継がれ、ジョージ3世が即位されたのは1760年。新しい君主ジョージ3世はジョージ2世に孫にあたります。皇太子フレデリック王子の息子がジョージ3世。急死した父君に代わってジョージ3世が即位します。最初は1760年に22才で即位されたジョージ3世の国王ご夫妻のお話からご紹介しましょう。
18世紀ジョージ3世とシャーロット王妃の場合は…
ジョージ3世と言えば辛辣な風刺画が残っています。卵と青菜、水だけのつつましい食事を摂り、椅子には布を当て、ろうそくは1本しか灯さない。そんな吝嗇ぶりを当時の風刺画家ジェームス・ギルレイが描いています。とても王族の生活ではないようですが、贅沢なことをジョージ3世は望まなかったようです。生涯遠出もせず、イングランド南部で過ごした話も残っています。ただジョージ3世の時代に、今のバッキンガムパレスを購入し、ロンドンの中心に邸宅を構えました。他の君主たちとはお金を使うところが違ったのでしょう。
ジョージ3世は即位した翌年の1761年、周囲が決めたシャーロット王妃と23才でご結婚されます。初恋の相手との結婚はかないませんでしたが、その後のご夫妻の仲は好く、次期国王のジョージ4世をはじめ15人ものお子さまたちに恵まれました。1780年からジョージ3世はシャーロット王妃のためにお誕生日のダンスパーティを開くようになり、このクィーンシャーロットボールが、レディたちの社交界デビューの場となり今でも続いています。
ジョージ3世は自然好きで、王立植物園となったキューガーデンにキューパレスの住まいも構え、キッチンガーデンも造っていました。政治にはあまり関心がなかったのか、「農夫のジョージ」とも揶揄されますが、国王のキッチンガーデンに残された野菜たちは、ヘリテイジベジタブルとしてその種子を今では販売しています。
晩年のジョージ3世は長患いをし、精神にも異常をきたしてしまいます。シャーロット王妃もそんな国王の心配もしていましたが看取ることはかなわず、シャーロット王妃が先に1818年、息子のジョージ4世に看取られこの世を去ります。シャーロット王妃の終焉の地は家族と過ごした思い出のキューパレス。シューロット王妃自身も植物への関心を持ち、植物学者になれるほど精通していました。今キューガーデンの植物たちの収集もジョージ3世とシャーロット王妃の時代に後押しがあったからだと言われています。ジョージ3世は王妃の死も認識できないほど悪化していましたが、王妃の死から14カ月後ウィンザー城で崩御されました。57年間の結婚生活と60年におよぶ在位期間と81才の人生。ジョージ3世は生涯王妃だけを愛し、愛人もいなかったと伝えられています。
余談ですが、次に嫡男のジョージ4世が即位しますが。この国王の評判は父君とは真逆なお話です。「ジョージー、ボージー、プディングにパイ」と歌われるほどの大食漢で、その大きな身体を妻になったキャロライン妃は好きになれず、またジョージ4世は風呂嫌いのキャロライン妃の悪臭を嫌い、ふたりの仲はさんざんなものでした。結局愛人三昧の国王と王妃の間には王女だけ。王女はご両親とは違う幸せな結婚生活に入られますが、最初のご出産の死産がもとで21歳の短い生涯を終えられました。
※写真はジョージ3世とシャーロット王妃のために創設したクィーンシャーロットボール
15世紀リチャード3世とアン王妃の場合は…
文豪ウイリアム・シェークスピアが悪名高きキャラクターにしてしまったリチャード3世。確かに残っている肖像画はずる賢そうな、得体の知れない凄みが見えています。でも悪名は真実なのか、その時代にいないのでわかりませんが、王位に就くために直系の王子たちを幽閉し、亡き者にした歴史は残っています。
ロンドン塔に送られたふたりの王子のお話は、このシェーンの「お役立ち情報」でも一度ご紹介したことがあります。前イングランド王のエドワード4世が亡くなったのは1483年、15世紀のこと。嫡男のエドワード5世がまだ少年だったため、難癖をつけてリチャード3世は少年の王子たちをロンドン塔に送りました。当時のロンドン塔はパレスのひとつでもありましたから、後の歴史の影はまだない時代です。でも問題は彼らが消えてしまったこと。長い年月が経て少年たちの遺骸がロンドン塔で見つかりました。ふたりの王子はあの場所で誰かの手によって亡き者にされてしまったようです。その犯人がリチャード3世、その悪名を高めてしまいました。
リチャード3世は野心の強さゆえに、結婚相手も「キングメーカー」と呼ばれていたウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘のアン・ネヴィルを選びます。また薔薇戦争の宿敵ヘンリー・テューダーは、前王の娘と婚姻関係を結び、お互い王座の証を立てようと画策が見え見え。リチャード3世と結婚したアン・ネヴィルは果たして幸せだったのでしょうか。アン・ネヴィルはリチャード3世とは再婚で、最初の結婚相手はヘンリー6世の早世した王子でした。それでもリチャード3世と結婚した時は16才。結婚の翌年の1473年に息子に恵まれます。この10年後に前国王は崩御し、リチャード3世の妻のアン・ネヴィルは王妃となりました。
アン王妃とリチャード3世はねじれた人間関係の最中にいて、翻弄されていました。リチャード3世は次の結婚相手も画策していたとも言われ、アン王妃を苦しませます。リチャード3世はシェークスピアにより極悪人として有名にもなりましたが、アン王妃を心から愛し、アンとの結婚は策略ではなく望んだこととも言われています。どんなに名を残した人物でもその真実は明らかにはならないことばかり。長い年月に埋もれてしまいます。
アン王妃はやがて結核に侵され、病弱だったひとり息子が亡くなった1年後にこの世を去ります。亡くなった日は日食。リチャード3世の命運も尽きたと人々は噂したと言われています。そしてリチャード3世もヘンリー・テューダーと闘い、レスターシャーのポズワースで戦死します。戦死はアン王妃が亡くなった5カ月後のことでした。極悪人の汚名は返上できないまま、リチャード3世はボスワースで眠っていました。しかし2012年工事現場から見つかった遺骸がリチャード3世のものと判明し、その顔が復元されました。そのお顔は肖像画で残されているものとよく似ています。ワインと美食を好んだことも調査の結果明らかになりました。
ウェールズのガーディフ城に、リチャード3世とアン王妃のステンドグラスの写真を見つけました。リチャード3世の方を向きながら聖書のような本を手に取り、読み聞かせているアン王妃の美しい顔だちと佇まい。このステンドグラスを見にウェールズへ出かけてみたくなりました。ふたりの仲睦まじさはこのステンドグラスにだけ残されています。
※写真はリチャード3世と行方不明になった前国王のふたりの王子
13世紀エドワード1世とエレノア王妃の場合は…
最後はとても古い国王夫妻のお話です。でもこの王妃の名を残すものは、ロンドン中心部に今もしっかりと刻まれています。それがチャリングクロス。トラファルガースクエアの最寄り駅でもあるチャリングクロスは、地下鉄とブリティッシュレイルが乗り入れています。どちらも駅は地下にありますが、ブリティッシュレイルのチャリングクロスは駅ビルのような建物がホテルになり、そのロータリーが広く造られています。でもそのロータリーに駅には相応しくない三角の建造物があります。それがエレノアクロス。エレノアはイングランド王エドワード1世の妃です。でもなぜここにクロス、十字架があるのでしょうか。
13世紀の半ば、イングランド王エドワード1世は15才で、エレノア・オブ・カスティル13才と結婚をしました。エレノアは今のスペインにあった王国からイングランドに嫁いできました。ほんとうは他のところに嫁ぐはずだったエレノア王妃。でも縁あってエドワードと夫婦になりました。ふたりはとても仲睦まじく、いっしょに旅に出かけます。十字軍に遠征した際にはエドワードが矢で撃たれた時は、エレノア王妃がとっさにその傷口から毒を吸い出したという逸話も残っています。史実の根拠はどうやらないようですが、身をもって夫を助けようとした美談が広がっていったようです。
エドワード1世は公妾も持たず、エレノア王妃との間に16人もの王子と王女を授かりましたが、成人に至ったのは7人の王子と王女たちでした。嫡男のエドワード2世を1284年に出産するまで王子たちは次々と夭折し、エレノア王妃は心苦しい日々を送られます。16回もの出産をくり返した健康体のエレノア王妃でしたが、世継ぎのエドワード王子を出産された後に病の兆候が表れ始めました。
死期が近いと感じたエレノア王妃は、娘たちの結婚話を進めます。1290年にイングランド北部へ自分の所有地への旅を挙行しますが、その途中のノッティンガムシャーのハービーで病気のためエレノア王妃は崩御されます。エドワード1世は嘆き悲しみ、王妃の亡骸がロンドンに運ばれる道々に十字架を立てるよう命じます。リンカーン、グランサム、スタンフォード、ゲディントン、ノーサンプトンなど全部で12カ所にエレノアクロスが建てられます。最後がロンドンのチャリング村。それでその場所がチャリングクロスと呼ばれるようになりました。
今私たちが見ているチャリングクロス駅のエレノアクロスは現存するものではなく、ヴィクトリア時代にチャリングクロス駅のホテルの宣伝のために再建されたようです。元々はトラファルガースクエアの現在チャールズ1世の像のところにありましたが、1647年に撤去されてしまったようです。
エドワード1世は当時としては考えられないほど身長が高く、190センチ近くあったと言われています。残っている肖像画にはリアルに描き起こそうと、眼瞼下垂(まぶたが下がってくる症状)まで表現しているものもあるようです。エドワード1世のその生涯はウェールズとスコットランドと果敢に闘い続けます。プリンス・オブ・ウェールズを名乗っていたウェールズ大公も降し、スコットランドとの闘いにも勝利。エドワード1世は戦利品として、スコットランド君主の戴冠式に使うスクーンの石をイングランドに持ち帰ります。
1301年にはウェールズ大公からはく奪したプリンス・オブ・ウェールズの称号を息子のエドワード王子に与え、それからはその称号が皇太子の代名詞となりました。エドワード1世はイングランドがウェールズを一体となったことを明確し、ウェールズはその先の15世紀にも反乱を起こすことになりますが、鎮圧後はイングランドに闘いは挑まなくなり、イングランドとウェールズは同じ国に収まりました。スコットランドとの闘いはまたまだ後史へと続きますが、そのお話はまた別の機会にご紹介しましょう。
イギリス国王のエドワードの名は、このエドワード1世から始まり8世まで続いています。ヘンリーは8世、ジョージは6世、ウィリアムは4世、リチャードは3世と続き、イギリス王室の家系図に刻まれています。ただジョンという名の国王は未だにたったひとりきりなのです。ジョン国王はエドワード1世の祖父に当たりますが、活躍した兄のリチャード1世と比べられ、また父君のヘンリー2世から所領地を与えられなかったから、ラックランドジョン(失地王ジョン)と呼ばれていました。その汚名のせいか、その後イギリス王室にジョンという名の国王は生まれていません。
ラックランドジョンのお話はこちらでご紹介しています。
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※写真はエドワード1世とエレノア王妃のために建てたエレノアクロスのレプリカ